[アドラー式] 競争のない世界
現代は競争社会だと言われています。
グローバルな世界において、国や企業そして個人を含む社会全体が競争に勝ち抜くことを求められています。
確かに、社会が進歩してゆく上で競争原理の果たす役割は絶大です。
そのような社会において、アドラーは競争を否定しています。
競争社会のもとでは、アドラー心理学はミスマッチなのでしょうか?
今回は、競争とアドラー心理学の関係を考えてみたいと思います。
他者は敵か味方か?
アドラーは「対人関係の軸に競争がある限り人は対人関係の悩みから逃れられす、不幸から逃れることはできない」と結論づけています。
競争には勝ち負けの概念があり、勝ったものには優越感、負けたものには劣等感が生まれます。
つまり、対人関係が勝負の関係に陥ってしまうという危険性を指摘しています。
昨今では、人を何かと勝ち組とか負け組とかに分けたがりますが、これも人間関係の軸が競争になっている社会を反映していると言えるでしょう。
そうなると、自分以外の他者はどのように映るのでしょうか。
「他者は競争相手であり敵である。」という認識になります。
負けたと思えば劣等感が芽生えますし、勝ったとしても次の戦いに向けて心が休まることはありません。
つまり、勝っても負けても、「他者は競争相手であり敵である。」という世界観のもとでは、「対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることはできない」というわけです。
競争のないアドラー式世界観
それでは、アドラーは競争をどのように捉えているのでしょう?
アドラーによると、「優越性の追求や劣等感は人間の成長には欠かせないものである。しかし比較すべきは他者ではなく理想の自分自身である」とされています。
私が持っているアドラーの世界観は、球面体の地表を各人が好きな方向に好きなスピードで歩んでいるイメージです。
スタートの合図も無いし、ゴール地点も各人バラバラです。
陸上競技の100m走のような直線的な世界観の対極にあると言ってもいいでしょう。
つまり、そのような世界観では他者との競争自体が成立し得ません。
あるのは、理想の自分に向けて前に一歩を踏み出すことだけなのです。
競争相手は理想の自分自身
理想の自分の捉え方は人それぞれなのだと思いますが、アドラーは、理想の自分を目指し「向上したいと願うこと」「理想の状態を追求すること」=「優越性を追求すること」は人類の普遍的な欲求だと位置付けています。
無力な赤ん坊として、生まれた人類はこの「優越性の追求」により、2本足で歩き、言葉を覚え、周囲の人と自由に意思疎通を図れるようになります。
この「無力な状態から脱したい」、「もっと向上したい」という欲求こそが人類繁栄の源になっているというのです。
他者との競争に勝ちたいというモチベーションで行動するより、理想の自分を目指して行動するというモチベーションで行動すべきだと説いています。
現実社会では自分より優れている他者を見て劣等感を抱くと言う事はあります。
アドラーも劣等感を持つことは否定していません。
しかしそこで、他者と比べて羨んだり憎んだりせず、自分の足りない部分として自分自身の内面に昇華させ、理想の自分に向けて前に一歩を踏み出す姿勢が大事なのです。
競い合う存在がいる事でお互い切磋琢磨するということはよくありますが、言葉の定義として、ライバルの悪口を言ったり疎ましく感じながら競い合う状態を「競い争う」=「競争」と捉え、ライバルの存在を認めた上で自分自身に向き合い前へ踏み出す行為=「優越性の追求」と捉えれば分かりやすいでしょう。
これが、アドラーの考える競争のない社会のモデルなんだと思います。
競争社会を生き抜くヒント
「人より頑張ることなんてとてもできないんですよね。あくまで秤は自分の中にある。」
あの「イチロー」選手が引退会見で自らの生き方について語った言葉です。
イチロー選手がアドラー心理学を知っていたのかどうか分かりませんが、大リーグという世界一と言ってもいい競争社会を生き抜いてきたイチロー選手が他人との競争を否定する発言をされている事には、深い意味がありそうです。
過酷な競争社会を他人と争う事なく、軽やかに生き抜いていくヒントが暗示されているような気がします。