[アドラー 式] ライバルは敵か味方か?

2020年8月9日

 日常的にスポーツや勉学など様々な場面でライバルと呼べるような存在が居ることは珍しい事ではありません。

アドラーによると「ライバルは敵であり他人と比べる事は意味がない」と結論付けられているように見えます。

しかし、本当にアドラーがライバルの存在を認めないとするならば、アドラーの持つ世界観は現代の競争社会にはミスマッチなのかもしれません。

そこで私なりにアドラーの持つ世界観と現代の競争社会の関係性を考えて行きたいと思います。

競争を否定するアドラー心理学?

アドラー心理学の名著「嫌われる勇気」の中でアドラー はこのように述べています。

「そのライバルがあなたにとって仲間と呼べる存在であるなら自己研鑽につながることもありあるかもしれません。しかし多くの場合競争相手は仲間には入らないでしょう」

つまり競争相手は人間関係の勝ち負けを決める対象となる人であり、ほとんどのとみなされると解釈されています

しかしこの解釈は少し短絡的でアドラーの持つ世界観を矮小化しているような印象が僕にはありました。

なぜなら競争相手を敵とみなすような世界観はこの現代社会においてとても貧弱な世界観であると言わざるを得ないと考えられるからです。

競争原理の基本

競争といえば、トーナメント方式いわゆる勝ち抜き戦による代表を決める戦いが思い浮かびます。

一番最小の単位は、1対1の勝負です。お互いがライバルなので、相手のことを分析して自分の能力が相手より上回るよう対策を練ります。この時、自分の能力を現状よりも上げるためにライバルの存在があります。ライバルが強ければ強いほど自分の能力を上げる必要があります。

なので、結果的に強いライバルがいる方が自分の能力は上がる可能性が高いと言えるのです。これが競争原理の基本です。

次にもう1組増やした4名でのトーナメント戦について考えてみたいと思います。

A、B、C、Dの4名が参加者です。

『A対B」『C対D」で予選を行い、AとCが勝ち残り『A対C」で決勝戦を行いAが勝ったとしましょう。

AはBとCに勝利していますので、先のライバルの考え方だとBとCはAの成長に寄与しているといえます。

問題はAとDの関係です。AとDは直接対戦はしていません。AとDが直接戦ったらどちらが勝つかはこの時点では分かりません。ただ重要なのは、Aが4人の代表になった影には間接的にせよDの影響もあるという考え方です。

Dのことをライバルとして研究して能力を伸ばしたCに勝ったAはCとDをライバルとして戦ったとも言えます。

数式的に表すと次のようになります。(ライバルとの対戦で相手の影響を受けることを+で表しています。)

A対B=Aの勝利(+B)

C対D=Cの勝利(+D)

A(+B)対C(+D)=Aの勝利=A(+B+C+D)

このようにトーナメントをみてゆくと、Aの勝利にはB、C、Dの存在が繋がっていると捉えることができます。

4人のトーナメント戦でAが勝利した状態=A(+B+C+D)をA(+3)と表すとします。

1クラス30名の学校で例えるならばA(+29)になります。

学年で5クラスあればA(+149)です。Aは学年150人の代表になるわけです。

世界が繋がる感覚

ここで重要なのは、代表であるAの能力の向上には他の149名の存在が影響を与えているーつまりAと他の149人は繋がっているという感覚です

この感覚があるおかげで、Aが他校との戦いに臨む際に他の149人は、我がことのようにAにエールを送るわけです。

この感覚は、階層が上がってゆくにつれて指数関数的に繋がってきます。

学校代表であれば3学年×150名(1学年)=450人の代表A(+449)

地区代表(地区に10校あると仮定)10校×450人(1校)=4500人の代表A(+4499)

これが、県代表になり国の代表に階層が上がってゆく訳です。

国の代表が競い合う場がオリンピックなどの国際大会になります。

日本代表と自分たちがどこかで繋がっている感覚があることで私たちは、日本代表を自分のことのように応援するのです

階層を上げると見方が変わる

 このような競争の原理を俯瞰してみると、確かに1対1の競争の場面では相手は敵に思えるかもしれませんが、一つ階層を上げるとライバルを仲間としてエールを送る構造になっていることが分かります。

(例えば、かって自分のライバルだった選手が日本代表になれば必死に応援するように)

この競争の原理によって、人間の能力の向上が図られます。この流れはアドラーの「優越性の追求は人間の普遍的な欲求である。」という主張そのもののように私には思えます。

なので、アドラーは対人関係が競争関係にあったとしても、一つ階層を上げてみればその競争は全体を押し上げることに繋がっている。

つまり「人類の優越性の追求」に繋がっているということを言いたかったのではないでしょうか。

優越性の追求とは

無力な存在としてこの世に生を受けた人間がその無力な状態から脱したいと願う普遍的な欲求。
「今の自分より向上したいと願う事」「理想の状態を追求する事」例えば、よちよち歩きの子供が二本足で立つようになる。言葉を覚え、周囲の人々と自由に意思疎通ができるようになる。
われわれは皆、無力な状態から脱したい、もっと向上したいという普遍的な欲求を持っている。                        

嫌われる勇気

Social interest=共同体感覚

当面の競争関係に囚われすぎるとライバルを敵としか感じられなくなります。

しかし、競争関係を全体の優越性の追求の過程だと解釈することでライバルは敵ではなくなり、全体の優越性追求する仲間であるという世界観が構築されてゆくのです。

私は、この全てが繋がっている感覚こそがアドラー の提唱するSocil interest(共同体感覚)なのだと感じています

Social interest=共同体感覚とは

アドラー心理学の肝になる世界観。
他者を仲間だとみなし、そこに自分の居場所があると感じられる感覚の事。
Self interest(自我)を超越しSocial interest(共同体感覚)を身につけることで、前向きで幸せな生き方ができるとされている。