「過去に囚われない」ライフスタイルのメソッド

2020年8月3日

過去そして現在の賢人達のメッセージの共通点の一つが「過去に囚われるな」ということでした。

逆説的に捉えるならば、殆どにの人が「過去に囚われながら苦しんでいる」ことの証なのかもしれません。

それほどまでに、人々を悩ませる「過去」。

我々はどのように「過去」に向き合えばいいのでしょう?

原始仏教(仏陀)の場合

過去のトラウマに反応しない練習をしよう。

例えば幼少期に虐められたトラウマがあり、また虐められるのではないかという恐れから対人関係をうまく築けないという人がいたとします。

この場合、過去に虐めた相手はとの関係は終わっているはずです。

虐められた相手は存在しないのにもかかわらず、虐められたという自分自身の反応に怯えている状態です。

真の問題は「虐められた過去」そのものでは無く、その現象に「反応してしまう自分自身」にあると捉えます。

自分自身の反応に問題があるとすると、過去の時間は積み上がってきますので時間と比例するように過去に反応してしまう自分自身のトラウマも積み上がってしまいます。

ゾンビとの不毛な戦いをやめてみる

これは次々現れるゾンビと戦い続けるようなもので、苦しみはエンドレスです。

なので、自分自身の心の反応をコントロールできればゾンビと戦うような不毛な戦いに巻き込まれずに済むというわけです。

それでは、自分自身の心の反応をコントロールするにはとうすればいいのでしょうか?

仏陀によると、過去の出来事に「反応してしまう自分自身を客観視すること」でかなりのコントロールができるとされています。

過去の出来事に対して「怒り」「恐れ」「後悔」「屈辱」などの心の反応が起こったときに、反応している自分自身を客観視できる視点を自分自身の中に持つことが大事なのです。

「今、私は前に喧嘩した相手に対して怒っているな」とか「今、私は過去の失敗を恥じているな」など、これは目の前にいないゾンビ(幻想)に対して反応している自分自身が存在していると客観視できれば、やがてゾンビは消えて無くなるというのです。

座禅や瞑想、現代風に表現するならばマインドフルネスの手法に近いのかもしれまません。

「反応」こそが悩みの正体です。心の反応こそが、人生のトラブル、悩みを引き起こしているのです。
となると、私たちが心がけなければいけないことは、一つです。
「ムダな反応をしない」ことです。
反応せずに、まず理解するーこれが、悩みを解決する秘訣です。
特に「心の状態を見る」という習慣を持つことで、日頃のストレスや怒り、落ち込みや心配などの「ムダな反応」を抑えることが可能になります。

反応しない練習 角川書店 草薙龍瞬著

ある科学者の視点

過去は前頭葉が生み出した幻想?

ある大変の有名な科学者が、「過去は脳の前頭葉が生み出した幻想なのかもしれない」とまじめに語っているのを聞いた事ことがあります。

その時は、科学者にしては非科学的なことを言う人だなと感じたものです。

その科学者が言うには、

後悔する生き物は人間だけ」で他の生物は後悔している様子はない。

後悔するから人は不幸になるのであって、後悔しないであろう他の生物(犬や猫)とどちらが幸せか分からない。

脳の認知機能もどこまで正確なのか分からない。

だから、嫌な過去は脳の前頭葉が生み出した幻想だと思うようにしている。

ということでした。

プログラムが違えば見える景色が変わる

確かにこの世界は、脳の認知機能によって構築された世界であることには間違いありません

我々の脳は共通のプログラムを搭載したパソコンのようなものなのかもしれません。

同じ情報を受け取っても、プログラムが違っていればディスプレイに映し出される絵は全く違って写ることがあります。

それと同じように、人間と他の生き物(犬や蝿やミドリムシetc)が認知している世界は全く異なるものでしょう。

どちらが真実という問題ではありません。(人間が認知している世界が本物であると主張することは傲慢な態度というべきです。)

認知機能によって世界は変わる

一方、同じプログラムを搭載している人類の間でも物事の認知に個人差があることも少なくありません。

認知症はその典型です。

認知機能が衰えることにより、自分の家族の存在や自分の名前すら認知できなくなります。その方の脳内では家族の存在や過去の出来事などの存在そのものが消えて無くなっている状態です。

健常者同士であっても、認知の個人差は存在します。

例えば、同じ絵画や映画を見て感動して涙する人がいる一方退屈であくびの涙を流す人が存在します

これもどちらが真実であるという論争は不毛です。どちらもその人の認知する範囲において真実だからです。

そのように考えると、自分に起きた過去の出来事についても自分の認知する範囲において存在している幻想なのかしれないーという科学者の発言も信憑性を帯びて響いてきます。

宗教と科学

過去のいい思い出やレガシーは大切にして、トラウマなどは消し去ることができれば、こんなにいいことはありません

その上で、トラウマは幻想だという考え方は有効かつ科学的なのかもしれません。

過去に対してのスタンスは宗教も科学も近いものがあります。

自分は宗教にも科学にも疎い、極めて俗世的な人間ですが「宗教」と「科学」の円が重なる場所があることを感じ始めています

過去に囚われない生き方のヒント」になれば幸いです。